人生、ワッソイ

人はワッショイするために生きてきた。あったかく、きっぱりと、ちょうしこかず。捨てることは大事。

太宰治『待つ』

太宰治のなかにとっても不気味な短編小説があります。
『待つ』という題で、若い女の子が駅でひたすら「何か」を待ち続けているというテーマです。

おそろしく短いお話ですが、太宰治の気持ちが全て凝縮されたような、
表現したいこと、ずっと伝えたかった願い、そういった光が宿っている作品のように感じます。

その女の子は人間がきらいで友達も恋人もいない。今で言うこじらせ女子。
ああ、今の世にもこんな娘がいるのだろうか、僕でよければ抱きしめてあげるのに。痴漢かな。

お互いしたくもない挨拶やお世辞をしあって相手のご機嫌を損ねないよう立ち回る人間関係のカラクリ。
ただただ神経をすりへらし合う、それが卑しく感じられ、その娘は人生に絶望しているのです。

それでも買い物の帰りに小さな駅のベンチでひたすら誰かを待ち続ける。


どなたか、ひょういと現れたら! という期待と、ああ、現れたら困る、どうしようという恐怖と、でも現れた時には仕方が無い、その人に私のいのちを差し上げよう、私の運がその時きまってしまうのだというような、あきらめに似た覚悟…
いったい、私は、誰を待っているのだろう。
もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。

私を忘れないでくださいませ。
その小さな駅の名は、わざとお教え申しません。
お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。

 

最後は、背筋が凍るような文章でした。
あっ俺じゃねえか!という自己発見、
そして人間すべてみんなこんな看板を掲げているという事に気づかされた。

みんな生きている。
「なごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの」を求めて。
そしてそれが誰かにとっての自分であることを願って。

ただ、自分というものは掘り下げればひたすらに暗いものである、
世界というものも見渡せば苦しく哀しいものである。

だからこそ、人は小さな駅で待ち続ける。
しかし、人は立ち上がらなければならない。
希望を見据えて創らなければならない。何かを、自分を。


待っている女の子は世の中にたくさんいるのだ。
いや、じつはこれが世界そのものの姿なのである。