人生、ワッソイ

人はワッショイするために生きてきた。あったかく、きっぱりと、ちょうしこかず。捨てることは大事。

理想的にモテる方法

「モテる」にたいする信念がなければならない。これが僕の恋愛観です。

男でも女でもいい、誰かこの人すっげぇなあ、すばらしいなあ、と思える人を見つけること。そして、誰かにとって自分がそういう人であれたら。そんな風になれるなら、死んだっていいさ。

尊敬、なんて言葉じゃ足らないくらい、人の人生観そのものをまるっと変えてしまうような出会いー。それを数多く創れるのが「モテる」ということである。僕はそう信じています。

人は自分なりに愛することしかできない。そして自分なりにモテるしかありません。

しかし、そんな抽象論はおいておいて、まだ20代の僕からしたら女からモテたくて仕方がない。男からは理想とされたいし、そういう格好よさを求めて生きているといっても過言ではない。

モテる、の意義についてこれ以上複雑にさせないため、人間として素敵になるというのはもっと年くってから書くとして、おっぱいもみまくるにはどうするかを考えることにする。

「大胆である」という事が第一義だ。骨身にしみそうなこと、硝酸をなめることを恐れず、やりたいことをぶっちぎりで貫く。常に余裕と冷静さを持ち合わせ、いつ死んでもいいという境地でいる。男たるもの、楽しいこと、キラキラしたこと、気持ちいいことを第一に考えてはならない。このような価値観はぜんぶまるっと女に渡してやるのさ。男が正しく緊張感と潔さを持ち、闘って挑む姿を見せ付け、圧倒させ続けるならば、、おっぱいはぜんぶお前のものだ。そして、これは大舞台での話じゃねえ、リングは俺らがすでに立ってるこの退屈な日常そのものなんだよ!かき回せ!楽しく唾吐かれてウンコ投げられて心えぐられろ!女はあんがい、すべて分かっている。

惚れていましたよ。本当に。好きだったし、心底、尊敬していた。あんなに素晴らしい人間は、世界中探してもいない。

岡本敏子岡本太郎のパートナーとして支えつづけ、彼が死んでからも太郎の作品や精神性を世間に伝え続けた)

精神的に病まない方法

僕は絶対に精神的に病むということがない人間である。

でも友達には病みやすいタイプの人が多くおりました。ある友人は、ついさっきまで仲良く会話してたのに、その後メールで自殺してやる!だの、見下しやがって!だのウンコ爆弾のように送りつけてくる。親切に話しかけても一向に返信がこなかったり。かと思えば、いつ遊べますか?いま話してもいいですか?としつこく聞いてくることもある。リストカットしましたと画像付のメールがきたり、お前の家破壊してやる!と事件まがいのこと迫られたり。。

こういう苦労をして、上記のアホも見捨てずきましたので、職場でうつになって会社にこれないだとか、対人恐怖症ですだとかいうレヴェルの人が生ぬるく感じるくらいです。しかし、同情する気はありません。僕は、世界における全ての不快な出来事は自分の不徳のいたすところ、身から出たさびだと信じている人間です。

人間というものはつくづく弱いものでして、自分が信じる常識や倫理に反することをしてしまっているという自省が強すぎるとどうにも絶望が止まらなくなってしまうことがあります。小学校で僕はすでにそれを骨身にしみて味わい尽くしていました。

人間は常に自己の殻を破っていかねば健全に生きられぬ生物です。それは、自己破壊、自爆、絶望的突進に他なりません。人間は、過去の経験から、こうしなきゃ人間としてダメだとか、これをやったら自分は生きる意味がないといったものに縛られて生きています。しかし、そんなもん、クソじゃね?とある日ブン投げられる人こそが強く凛々しい。こうしちゃだめだよな、ああなんて俺はだめなんだ、で終わりではなく、しゃあねえどうなるかわからんがいっちょ地獄見てやるかと思い切って自分が怖い、損だと思っている事に踏み切れる図太さ、柔軟性、瞬発力を持った人間こそ尊敬に値する大人物である。コイツは世間から理解されずお叱りを受けることもあるでしょう、見下されることも、排除されることも、蹴飛ばされることもあるでしょう。しかし、精神的に病まず、人間としていつまでも目を輝かせて生きる道は、ここにしかない。

楽しんで就職活動をする方法

就職活動・進路選択とは今後寄り添う世界を決めることと同じです。

だからどんなヤンチャな奴でも愉快な奴でも、ムキになってドキドキ、ビクビクしながらやっているのです。

いうならば、生まれる前の赤ちゃんが自分の親を選択する営みに似ている。

朝飯何食おっかなーなんて世界の幅とは比較にならぬ、今後のあらゆる選択の前提をつくる大決断に他ならないのであります。

僕は、この選択を2年前体験しました。

この決断に秘訣はふたつあります。

自分がグッと引き寄せられる世界を選ぶ。キラキラして追いかけたくなるような人を見つけたらその人の組織に入る。

 きっとつらいことはあるかもしれませんが、後悔はしないでしょう。

僕は、後悔しきりです(笑)。

太宰治『待つ』

太宰治のなかにとっても不気味な短編小説があります。
『待つ』という題で、若い女の子が駅でひたすら「何か」を待ち続けているというテーマです。

おそろしく短いお話ですが、太宰治の気持ちが全て凝縮されたような、
表現したいこと、ずっと伝えたかった願い、そういった光が宿っている作品のように感じます。

その女の子は人間がきらいで友達も恋人もいない。今で言うこじらせ女子。
ああ、今の世にもこんな娘がいるのだろうか、僕でよければ抱きしめてあげるのに。痴漢かな。

お互いしたくもない挨拶やお世辞をしあって相手のご機嫌を損ねないよう立ち回る人間関係のカラクリ。
ただただ神経をすりへらし合う、それが卑しく感じられ、その娘は人生に絶望しているのです。

それでも買い物の帰りに小さな駅のベンチでひたすら誰かを待ち続ける。


どなたか、ひょういと現れたら! という期待と、ああ、現れたら困る、どうしようという恐怖と、でも現れた時には仕方が無い、その人に私のいのちを差し上げよう、私の運がその時きまってしまうのだというような、あきらめに似た覚悟…
いったい、私は、誰を待っているのだろう。
もっとなごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの。なんだか、わからない。

私を忘れないでくださいませ。
その小さな駅の名は、わざとお教え申しません。
お教えせずとも、あなたは、いつか私を見掛ける。

 

最後は、背筋が凍るような文章でした。
あっ俺じゃねえか!という自己発見、
そして人間すべてみんなこんな看板を掲げているという事に気づかされた。

みんな生きている。
「なごやかな、ぱっと明るい、素晴らしいもの」を求めて。
そしてそれが誰かにとっての自分であることを願って。

ただ、自分というものは掘り下げればひたすらに暗いものである、
世界というものも見渡せば苦しく哀しいものである。

だからこそ、人は小さな駅で待ち続ける。
しかし、人は立ち上がらなければならない。
希望を見据えて創らなければならない。何かを、自分を。


待っている女の子は世の中にたくさんいるのだ。
いや、じつはこれが世界そのものの姿なのである。